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第十一編 近づく創立百周年

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第十七章 創設・発展の功労者を偲ぶ

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 私立大学は志立大学であるべきである。これは無理な語呂合せなどでは断じてない。創設・発展に尽した功労者達の建学の志を忘れては、私立大学の実質的な存続はあり得ない。故に、絶えず、振り返り確認しなければならないのである。昭和三十年代に入って、学苑はこれら功労者達に思いを致すべき節目を相次いで迎え、その人となりを偲ぶことになった。

一 小野梓没後七十年

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 大隈重信を学苑創設の父とすればその母とも擬せられる東洋小野梓が短い生涯を閉じて七十年目に当る昭和三十年、その記念祭が十一月十八日早稲田祭への参加という形を採って、梓の次女安子およびその嗣子又一を主賓として開催された。九時半から始まる記念祭式典に先立ち大隈庭園での梓の胸像礼拝式が行われ、早朝から礼拝者が詰めかけた。記念祭式場となったのは共通教室講堂。教職員、学生で立錐の余地さえなくなったところで式典に入り、小野梓の業績に対する感謝の礼拝に続いて、たまたま帰国の遅れた総長大浜信泉に代って常任理事阿部賢一が、「学苑にとっては大恩人である梓先生、先生も月日とともに忘れられていくが、大学としてはことごとに先生を想い起し、みずから鞭打たねばならない」と式辞を述べ、これに対し小野安子から、「このたびは思いがけない皆様のおぼしめしによって、このように盛んな祭典が催され、地下の霊はもちろんのことでありましょうが、遺族の喜びはこの上なく、お礼の申しようもありません」との謝辞があった(『早稲田学報』昭和三十年十二月発行 第六五六号 二一―二二頁)。次いで記念講演へと移り、梓と同じ高知県宿毛を郷里とする政治家として衆議院議員の林譲二、校友で文部大臣の松村謙三が相次いで立って、林は「梓先生とは郷里が同じであるばかりではなく、多少縁がある。先生幼少の頃の若き日の俤を話してみたい」とさまざまなエピソードを披露し、松村は大隈づきの記者であった頃の思い出話から大隈と梓また梓の遺族との関係などに話が及んだ。式典終了後正午からは尾崎士郎原作の映画「早稲田大学」が上映されて、参会者は画面の中に在りし日の梓を偲び、二時からは演劇「小野梓」が、制作・河竹繁俊、作・野沢英一、演出・加藤長治、装置・遠山静雄、照明・小川昇、舞台監督・稲垣勝、出演・加藤精一ほか近代劇場、演劇専修学生により上演された。また図書館では十八、十九、二十日の三日間に亘って「小野梓先生七十年祭記念展示会」が自筆文書、書翰、著書、論文等を中心にして開催された。

 行事が早稲田祭の一環として行われたこともあって、学生の反応が十一月二十九日付の『早稲田大学新聞』の記者座談会「早稲田祭を斬る」に「盛況の小野梓式典」として紹介されているので、一部引用しておこう。

司会 小野梓の七十周年記念式典では学生が廊下にあふれていたね。

B やはり学園創立の恩人を知ろうとする意欲のあらわれじやあないか、僕はそう見たい。

C 式典後に映画が上映されるということも大きく理由していたんだよ。

司会 講演内容はどうだつたんだい。

D 林氏にしろ松村氏にしろ、講演としては意味があつたが、冒頭の阿部理事の話はそれ以上に小野梓への感銘を新たにしたものだつたよ。

F 小野先生の令嬢があいさつをされたときはハンカチを目にあてていた教授もいた。

司会 「小野梓」の劇は……

D 式典に比べて観客は少なかつたね。

F 事実にもとるところがあるんだが、フィクショナルなものが強かつた。これは考えなければ……

E しかし早稲田祭という機会を利用して創立の恩人を学生に認識させたという点でよいことだつた。今後もこれは続けていくべきだね。

 なお、この時大隈庭園にあった小野梓の胸像は、一六七―一六八頁に前述した如く、二年後に小野講堂が完成した折、この講堂の正面向って右手へ移された。

二 坪内・市島・高田・天野生誕百年

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 昭和三十四年五月二十二日は坪内逍遙生誕百年であった。これを記念して学苑では演劇博物館と文学部が中心となって多彩な行事が組まれた。当日、記念式典が共通教室講堂で午後一時から開かれ、大浜総長が式辞を述べた後、河竹繁俊演劇博物館長が逍遙坪内雄蔵の人となりについてユーモアたっぷりに語り、とりわけ「先生は明治二十六年、『我が邦の史劇を論ず』という題の論文を発表し史劇改革を志されて爾来五十年の永きにわたり、史劇、楽劇、児童劇、またページェントの提唱と、演劇のあらゆる方面にわたり御活躍されたのです」と強調し、次いで第一文学部長谷崎精二が壇上に立って「私は先生から直接御指導いただいた最後の門弟の一人ですが、先生は学問上のことでは決して妥協を許さぬ厳しさを持っておられ、疑問を徹底的に究明する態度を崩されたことがなかった。この態度が先生の一生を貫いていたのです」と生前の面影を偲んだ。主催者側が前座をつとめた形で、来賓として登壇したのは作家の正宗白鳥と文芸評論家の山本健吉であった。正宗は「坪内先生は文学の世界にも倫理観を導入すると共に現実の材料を料理した。その活躍は、多方面に、個人個人熱心に御指導なさったので全く暇をもたず、一生が奮闘の連続でした。もう少し自分の芸に遊びノンビリ生きていて欲しかった」と偲び、山本はとりわけ逍遙の業績について「シェークスピアを完訳したことは非常に有意義なことで、その場合にも、すぐ舞台で使えるよう実際的配慮をめぐらされておられた。先生をあえて呼ぶなら小説創作家よりむしろ広く教育家、啓蒙家であって、常識性が先生の本領である。先生を偲ぶ時、行動的人間の存在というものをつくづく考えさせられます」との評価を披露して結んだ(『早稲田学報』昭和三十四年六月発行 第六九二号 三六―三七頁)。二時間に亘った式典の終了後、少時休息を挟んで、逍遙・抱月・須磨子の三人が登場する東宝映画「女優」(衣笠貞之助監督作品)が上映された。なお記念行事としては、逍遙生誕の二十二日を中心に六日間に亘り新宿伊勢丹で演劇博物館と東京新聞社との共催で逍遙の人と業績を偲ぶ特別展覧会が催され、東京大学学生時代のフェノロサ講義筆記ノートから自筆稿本、脚本、絵看板、舞台装置図等まで展示され、連日観客の絶えることなく盛況であったし、また五月二十六日には、戸山町記念会堂でシェイクスピア劇「ヂューリアス・シーザー」が、逍遙二十五歳のときのシェイクスピアものの初訳作品という因縁を以て、総指揮・坪内士行(逍遙の養子)、演出・印南高一(喬)ならびに加藤長治、舞台監督・河竹俊雄(登志夫)ならびに安藤信敏(安堂信也)、舞台美術・遠山静雄、音楽・宇野誠一郎、制作・河竹繁俊・国分保・志賀信夫、配役はシーザー・加藤精一、キャルパーニャ・夏川静枝、ブルータス・根本嘉也、ポーシャ・加藤道子、アントニー・夏川大二郎、キャシャス・原孝之と、以上のスタッフおよびキャストで上演された。

 翌昭和三十五年は、草創期学苑育ての親と言うべき元総長高田早苗、および前記の坪内、高田、そして天野為之と並んで、早稲田の四尊とも呼ばれた春城市島謙吉の生誕百年に当る。市島春城先生生誕百年記念祭は図書館の主催で五月八日から三日間に亘って行われた。九日午後一時から小野記念講堂で記念式典が執り行われ、折から渡仏中の大野実雄館長に代って洞富雄副館長が、二代館長市島による図書館整備の沿革ならびに謝意を述べて挨拶に代え、次いで大浜総長が、「学府大学の図書館は、アカデミックな心臓であり、その蔵書数と質が、大学評価の一基準ともなるのである。本図書館は両面において真に日本屈指のものであり、大きな誇りを感ずるのである。明治三十五年東京専門学校が早稲田大学と改称開校すると同時に創設された図書館は、初代館長として市島先生の卓識とたえまない努力の結果今日の完成をみたのであり、先生こそ図書館の生みの親、育ての親と言えるであろう。今回先生の生誕記念百年祭を行なうことは、大学にとっても、大に意義あることである」(同誌 昭和三十五年五月発行 第七〇一号 五〇頁)と式辞を述べたあと、来賓として出席した原安三郎と元演劇博物館長河竹繁俊とがそれぞれ市島を偲び、最後に遺族代表として謙吉の四女市島光子が挨拶と謝辞を述べて式を終了した。八日および九、十日の三日間は図書館で記念展示会が開かれ、多数の参観者を呼んだ。

 他方、高田早苗先生生誕百年記念祭は市島のそれと時期をずらせる形で、十一月十四日から三日間に亘って開催され、共通教室および図書館を会場にして記念講演会と展示会が挙行された。初日十四日午前十時から大浜総長以下、理事、教職員、学生多数が駒込の染井墓地の半峰高田早苗の墓に詣で、発展を遂げた学苑の現況を報告した。午後二時からは共通教室で、高田の遺族を招き、理事、学部長、教職員、学生多数出席の下に記念講演が行われ、大浜総長が「早稲田大学が今日の大発展を遂げたのは、創立者大隈侯および小野梓先生の御功績もさることながら、高田先生の全生涯にわたる寝食を忘れるほどの御努力に負うところが全く大きいものであります」(同誌 昭和三十五年十二月発行 第七〇七号 三六頁)と掛け値なしにその功績を讃えた挨拶をしたあと、阿部賢一尾崎士郎原安三郎の三名が講演者として相次いで登壇し、初代学長・第四代総長高田の偉大な人格や業績、回顧談などにそれぞれ三十分余の熱弁を揮い、午後四時半和やかな雰囲気のうちに会は終了した。一方図書館では十六日まで第二・第三閲覧室で記念展示会が開かれ、盛況であった。なお、『早稲田学報』第七〇一号が「高田・市島両先生生誕百年記念号」として特集を組んでいることを付記しておく。

 坪内、市島、高田と、いわば順当に生誕百年記念行事が行われてきたところで、やや特別な意義を持ったのが、翌三十六年十一月十五日から十七日までの三日間に亘って行われた天野為之先生生誕百年記念祭である。この三日間、図書館第二・第三閲覧室を会場に記念展示会が、修学時代から、東京専門学校創設、『経済原論』の出版、東洋経済新報社の経営と『東洋経済新報』における論説、早稲田大学商科の創設、早稲田大学および早稲田実業学校の経営と、その生涯の活躍ぶりを伝記的に印象づけるように遺品の展示に工夫が凝らされて行われた。そして最終日の十七日午後二時から大隈講堂において記念講演会が開かれ、阿部賢一理事が「経済学の先覚天野先生」、名誉博士石橋湛山元首相が「恩師を偲ぶ」、最後に小泉信三前慶応義塾長が「天野先生を思う」と題して講演を行い、盛会を極めたものである。早稲田大学校友会も、『早稲田学報』第七一五号(昭和三十六年十月発行)で「天野為之先生生誕百年記念特集」を組み、天野の業績を顕彰した。既述の如く、天野は大正六年の「早稲田騒動」において高田支持派と対立する形となり、学長の任期を終えたのち教授も辞し、早稲田実業学校に専念。以来、学苑とは絶縁した形で構内に一歩も足を踏み入れることがなかったと言われ、一方学苑側においても天野を排除する雰囲気がその没後に至っても皆無とは言えなかった。その意味で、この記念行事はいわば学苑における天野の復権、そしてこの後の早稲田実業学校の学苑への系属校化の伏線の一つとなったのである。

三 大隈重信生誕百二十五年

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 こうして先覚を偲ぶ行事が一巡したところで、昭和三十八年になって大隈重信を祭る機会がやってきた。すなわち、この年は天保九年(一八三八)の大隈生誕年から数えて百二十五年目に当る年であったのである。大隈の持論であった人生百二十五歳説を思い出す時、生誕百二十五周年は大隈にとって格別の年であるとの思いは、多くの学苑関係者に共通するところのものであった。早速、大隈生誕の日に合せる形で、三月五日、校友会誌『早稲田学報』主催の座談会「生誕百二十五年記念 大隈重信侯を語る」が、校友として衆議院議員松村謙三、教授柳田泉、講師木村毅、教授吉村正、校友会常任幹事丹尾磯之助の五人の出席を得て行われ、談論風発、多彩な大隈像が語られた。例えば、学生時代とそれに続く新聞記者時代に大隈の知遇を得た松村は、大隈の卓抜な記憶力と推理力に感服した様子を「記憶異常の頭」と表現しながら、大隈の御母堂に対する孝行ぶりと、当意即妙の演説ぶりとを紹介して、語った。柳田は大隈の大言壮語のもととなった原因を若き日の修養ぶりや生活ぶりから説き起し、木村は大隈の語学力の確かさを他の政治家との比較も交えながら立証し、吉村は大隈の政治思想を伊藤博文と比較し、丹尾は司会役として『大隈伯昔日譚』から大隈家玄関日誌までの資料を周到に用意して話の裏付けに厳密を期したのであり、そして最後に、大隈が百二十五歳の長寿を保ったならばとの仮定を立て、その場合に成し得られたであろう業績について、それぞれの想像力を巡らさせている(『早稲田学報』昭和三十八年四月発行 第七三〇号 八―二〇頁)。丹尾はこの座談会記事も収録した編著『巨人の面影――大隈重信生誕百二十五年記念――』を校倉書房より十月に出版し、記念行事を盛り上げた。

 大隈のこの偉人としてのイメージを一般に普及させたのが、映画「巨人大隈重信」である。これは熱烈な大隈ファンでもあった大映社長永田雅一の企画・制作によるもので、監督は三隅研次。ストーリーは、浦上キリシタン問題における英公使パークスとの論戦、明治十四年の政変、東京専門学校の創立、爆弾事件、早稲田大学開校二十周年記念祝典と、大隈の足跡を辿ったもので、大隈には宇津井健(一文中退)、夫人綾子には坪内ミキ子(美紀子、昭三八・一文。坪内士行の娘)と、学苑出身の新進俳優が扮した。「この映画を観て、はじめて大隈侯という人間とその偉大な足跡について知ることになるわけです」とは、それまで大隈についてあまり知らなかったという宇津井自身による正直な告白である(「大隈重信侯に扮して」同誌 昭和三十八年十月発行 第七三五号 三〇頁)。

 さて十月に入ると、公式行事が学苑内外で盛大に催される。先ず十月十七日、大隈講堂において、大隈重信生誕百二十五周年記念大隈杯争奪全日本学生雄弁大会が「より良き明日の建設のために」をテーマとして行われた。その翌翌日十九日には、第五回大隈敬慕祭と生誕百二十五年記念講演と映画の会が共通教室講堂で行われ、校友で元厚生大臣の衆議院議員川崎秀二(昭一〇政)が「大衆政治家大隈重信」、駐日アメリカ大使エドウィン・ライシャワーが「十九世紀の日本」と題して講演し、続いて映画「早稲田大学」が上映された。

 学苑の公式行事として組まれたのは、十月二十一日から始まった「大隈重信生誕百二十五年祭」である。同日墓前祭が文京区音羽の護国寺で行われ、翌二十二日には大隈講堂で記念講演会が左記のプログラムに従って催された。

司会 常任理事 時子山常三郎

一、挨拶 総長 大浜信泉

一、講演

教育者としての大隈老侯 木村毅

大隈老侯と日本の政治 松村謙三

一、独唱 岡村喬生

一、映画「大学の青春」

このプログラムは続いて二十六日に大阪の四天王寺会館、二十八日には大隈の郷里佐賀市立体育館でも再演され、記念祝賀の気運の広がりを示した。十一月に入って十日から十二日までの三日間に亘り、図書館ホールおよび第一閲覧室を会場に記念展観が「人間・大隈重信」をテーマにして開催された。大隈の生涯を「生いたち」から始まって歴史的エポックや東京専門学校創立を含む各事業ごとに小テーマとして整理し、遺品、絵、図面、書、写真、建議書、書簡、新聞等多数の資料が小テーマに付した解説によって参観者に印象づけられる工夫が凝らされた。

 そして十二月、フィナーレを飾るイヴェントとして催されたのが、校友および校友会が主体となっての「大隈重信生誕百二十五年記念祭」である。六月から準備を起し、記念祭役員に元首相石橋湛山をはじめ政界、財界、操觚界の有力著名校友が名を連ね、かつ発起人には校友以外の著名人も含めて千名近い名前が揃えられるという大規模かつ派手なもので、大隈を偲ぶにふさわしい賑やかさが演出されることになった。先ず八日、前夜祭として墓前祭が音羽護国寺で行われてから、大隈会館で三百名余りの招待による追憶パーティが開かれ、思い出話に花が咲いた。明けて九日、日比谷公会堂を会場に記念祭が式典とアトラクションの二部構成で演じられた。式典では、司会を記念祭実行委員長の衆議院議員川崎秀二が務め、開会の辞を皮切りに、衆議院議員松村謙三が式典宣言を行い、続いて内閣総理大臣池田勇人、総長大浜信泉、慶応義塾長高村象平、建設大臣河野一郎、元日本社会党委員長鈴木茂三郎、評論家小汀利得の式辞があり、それぞれ大隈の人となりや業績や思い出に言及した。例えば、河野一郎は、

思い起しますれば、大正九年秋であったと考えます。当時私は競走部の一選手として、一番憧れでございました本郷の帝大の運動会で、早稲田が初めて優勝いたしましてその優勝旗をもらって秋の日暮れ方学校に帰ってまいりました。当時は有名なトロフィーだとか優勝旗を学生がとったときには、かならず大隈邸にまいりまして、老侯と記念撮影をすることが例になっておりました。私たちもその光栄に浴すべく、奥庭の方に通されて、そこで記念撮影をいたすことになったのであります。老侯は和服姿で選手一同をジロリとみわたして「そんな痩せておったんじゃ話にならんじゃないか、もっとサツマイモでも食いたまえ。」これだけが私が聞いた言葉でした。当時はなんのことかわからなかった。ご承知のように、ランニングの選手は筋肉質でなければ走れない。ところがでてくるなり、痩せておっちゃ話にならん、サツマイモを食え。私はここに総長の偉大さがありえらさがあると思う。桁が外れているのです。 (『早稲田学報』昭和三十九年一月発行 第七三八号 四六頁)

と爆笑を誘い、一方、鈴木茂三郎は、

私は……さいわい創立三十周年式典に遭遇いたしましたので、河野さんよりはもう少し総長の聲咳に接する機会が多うございました。同時に大正四年に学校を卒業しましたときは、大正三年から大正五年にかけまして第二次大隈内閣が成立しまして、私は新聞記者として政治家としての老侯を知る機会を得ました。……私はここに、この演壇に立って私ども社会党の委員長浅沼稲次郎君が昭和三十五年十月十二日ここで刺し殺されたことを思い起こさざるをえないのであります。ご承知のように大隈老侯は明治二十二年、日本の民族の独立のために不平等条約を改正するその大きな犠牲となって右の脚を爆弾のため失なわれました。日本の政治家はこうした不幸な運命にまとわれておるのであります。……資本主義の建設期における老侯、その資本主義から社会主義への転換期の浅沼稲次郎君の間には、立場の違いはありましてもお互いに民族の独立と民主主義の上に、議会政治を確立しようという大きな日本の目標があったのでございます。私がここで浅沼稲次郎君を思い起こしましたのは、たれよりももっとも大隈老侯を尊敬したのは浅沼稲次郎君でありました。老侯のつくりあげられた早稲田大学の母校に対して深い愛情を持ったのも浅沼稲次郎君でありました。今日浅沼健在であれば私でなく浅沼君が、ここで大隈老侯生誕の祝いのあいさつをするのであるということを考え、私はそれ故に彼を思い起こしたのであります。 (同誌 同号 四七頁)

と、一瞬会場を深い沈黙に包んだのであった。

四 安部・平沼生誕百年と浮田没後二十年

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 坪内、市島、高田、天野の生誕百年祭は、学苑創設の功労者の遺徳を偲び建学の理念をあらためて思い起すという意味において、総長の指揮の下、大学が主催して行ってきた。そこで、一応の役目が果されたところで、以後この種の行事を大学主催によって行うという方式は打切りとなったのである。しかし、学苑において恩師の追慕を打ち切るわけにはいかない。

 昭和三十九年はオリンピック東京大会の年であった。この年、「本学園の興隆期において、政治経済学部長・図書館長・高等予科長・運動部長・野球部長の要職を歴任し、教壇に運動場に不滅の薫化をのこされた」(『早稲田大学広報』昭和三十九年九月二十一日号)安部磯雄の生誕百年祭が催されたのは、このオリンピック開催と無縁ではない。無縁でないどころか、明治四十三年頃、当時のフランス大使から直接オリンピックへの日本の参加を嘉納治五郎および岸清一とともに慫慂され、やがて日本体育協会を創設する世話人に加わったのが安部であり、すなわち安部は日本におけるオリンピック史の基礎を築いた一人だったわけである。その意味もあって、慶応元年(一八六五)生れの安部の生誕百年を一年繰り上げて、第一・第二政治経済学部、図書館、体育局の共催、稲門体育会の協力により行事を持つことになった。

 十月一日、雑司ヶ谷霊園での展墓、安部球場での銅像献花で行事は始まり、図書館ではホールと第二閲覧室を使って同日から三日まで記念展示会が催された。安部および家族の肖像写真、知友との写真、墨蹟・遺品、書簡、日記・自伝類、著書・雑誌論文、論稿・演説資料、社会運動関係資料、選挙関係資料、野球・スポーツ関係の写真および資料がところ狭しと並べられ、加えて四年前のオリンピック・ローマ大会で近藤天(昭一一専法)が監督を務めた体操男子団体総合の金メダルを含めて、戦前・戦後のオリンピックの参加章、メダル、バッジなども展示され、「早稲田スポーツ回顧展」を兼ねるものとなった。一方、大隈講堂では、九月三十日から十月二日までの三日に亘って、安部と同じ同志社出身でもある阿部賢一、社会主義運動の同志であり首相も務めた片山哲、野球部の部長・監督のコンビを組んだ飛田穂洲が記念講演を行って多数の聴衆を集めた。そして『早稲田学報』第七四四号(昭和三十九年九月発行)は、阿部賢一小汀利得、片山哲、木村毅時子山常三郎による座談会「安部磯雄を語る」と泉谷祐勝「安部磯雄先生とスポーツ」を特集とした。

 平沼淑郎安部磯雄よりちょうど一年前の元治元年(一八六四)二月の生れである。順序は逆になったが、安部の生誕百年を祝った翌十一月に、今度は第一・第二商学部と早稲田大学経済史学会が共催し大学が協賛するという形で「平沼博士生誕百年記念行事」が組まれた。安部が同志社から移ってきて学苑に社会研究とスポーツの伝統を打ち樹てたとすれば、平沼は、岡山、仙台、大阪の官公立学校の教諭・教授・校長――大阪市助役も勤めた――を経て不惑を過ぎての学苑への「中途入社」ながら、草創期商科(商学部)を担ってその「父」となり、大正期の「早稲田騒動」の後始末役として学長に就任したという切札。教師としては商業史・経済史を講じ、歴史学派経済学者としては社会経済史学会の創立に参加して初代代表理事に就任し、学苑を経済史研究の一大拠点とした。記念行事は十一月四日午前十時の染井霊園での展墓で始まり、正午に商学部校舎玄関の胸像献花の後、午後二時より大隈小講堂で、学苑教授で平沼の直弟子である入交好脩が「恩師平沼淑郎先生の学績」、松山商科大学教授上田藤十郎が「日本経済史学の発達と平沼淑郎博士」、亜細亜大学教授猪谷善一が「歴史学派経済学者としての平沼淑郎先生」とそれぞれ題して講演、そして午後五時よりの大隈会館での盛大な晩餐会を以て終えた。この行事に合せて編まれた『平沼淑郎博士生誕百年記念誌』には学苑・学部関係者のみならず、我が国の経済史学界の重鎮が挙って追悼の記また論文を寄せ、その数四十名。中でも前記猪谷善一の記念講演と同題の論攷は、二十二頁に亘って平沼の学問を分析し、その形成、特質、意義を論じた本格的な日本経済学史研究であると同時に学苑の学問史を語るものである。

 安部磯雄と同じ同志社の出身で、その安部より二年前の明治三十年に上京し、学苑で特に西洋史学の礎を築き、初代図書館長、高等師範部長、理事等を歴任し、また大隈重信の文明運動の実質的推進者として大日本文明協会編集長、更には雑誌『太陽』の主幹と、学苑内外で活躍した浮田和民は、安政六年(一九六〇)の生れで昭和二十一年に没している。生誕百年記念を祝うとすれば昭和三十五年でなければならなかったが、当時の世情に気をとられたか時機を失し、四十一年に第一・第二政治経済学部、第一・第二文学部、教育学部、図書館、科外講演部共催の「浮田和民先生御逝去二十年祭」を以て埋め合せることになった。浮田和民と言っても、「現在わが学園のうちですら、明治・大正・昭和の三代に渉り、類稀なる学者として、教育者として、社会評論家として果亦国民の指導者として活躍された方であることを知っている学生は少ない」(阿部賢一浮田和民先生を偲びて」早稲田大学校史資料室編『浮田和民博士年譜と著作目録』)だけに、この埋め合せの意義は強調されてよい。行事は十一月十五日多摩霊園において関係機関代表者による展墓で開始され、翌十六日午後三時から教育学部四一一教室における総長阿部賢一と評論家小汀利得による記念講演会、同日午後六時からの校友会館での懇談会、一方両日に亘っての図書館第二閲覧室を使って「浮田和民博士追憶展」と行われた。特に展示品は、女婿原安三郎所蔵のものから同志社大学に協力をいただいたもの、更には浮田の出身地熊本まで足を伸ばして収集した資料を含めて、肖像画、写真、書簡、日記およびノート類、講義および講演の草稿、著作、講義録、執筆した主要雑誌と多彩。中にはエール大学留学時代の授業料受領証も含まれていた。準備に当った一人中西敬二郎は、「〔私は〕先生晩年の学生の一人で、寸尺の間に先生の声咳に接したが、その時は温顔そのもので宛も慈父の如く、とくに長い眉毛が印象的だった。そして時折先生の講義案をのぞき見したが、丹念な書き入れに驚いたものである、今回この展示会のために玉稿を整理し、その莫大な量に更に驚嘆を新たにした」(同書 三〇―三一頁)と感慨を吐露している。

五 塩沢・田中生誕百年

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 塩沢昌貞は卒業生として初めての学長・総長であり、歴史的に学苑の成長・自立を体現した象徴でもある。明治三年(一八七〇)生れで、昭和十八年に学苑停年制度による第一号の退職者となり、その二年後の昭和二十年七月に七十五歳で永眠した。大隈重信の知恵袋とも言われ、経済学者としての令名は我が国学界に響きわたり、卒業生としてこれまた初めて帝国学士院会員に選ばれた先覚は、政治経済学部校舎の中庭で胸像となって学生達を見守っている。しかし没後四半世紀も経たところで、胸像の主を知る学生は殆どいないというのが実情であった。これに心を痛めたのが、塩沢の愛弟子で長年同学部で教鞭を取ってきた名誉教授久保田明光である。久保田は四十五年十月に塩沢生誕百年を迎えるのを機に記念行事を催すべきことを訴え、これを受けた大学史編集所により翌四十六年六月二十一日から二十三日までの三日間に亘って実現を見たものである。行事は二十一日の染井霊園での墓参、二十二日小野講堂での記念講演会、二十二・二十三日の大隈記念室での展示会として行われた。講演会では、大学史編集所長小松芳喬、名誉教授で東京経済大学学長の北沢新次郎、学苑評議員で評論家の小汀利得が、それぞれかつて塩沢の講筵に列した学生として恩師のプロフィール、エピソード、学問、思想を語り、また学外からは学界長老として独協大学教授本位田祥男が「日本経済学史上の塩沢昌貞」と題し、成城学園名誉園長高垣寅次郎が「塩沢昌貞博士の経済学」と題して、経済学者としての塩沢の再評価を行った。これらの講演は『早稲田大学史記要』第五巻(昭和四十七年三月発行)に収められている。展示会では、塩沢の留学時代のノートを含めて肖像油絵、遺品、遺墨、愛蔵書等が展示され、著書を残さなかったと言われる大学者の実像が窺えるものであった。ただここで痛恨事であったのは、行事のきっかけを作った久保田明光が直前の六月十一日に急逝したことである。

 昭和六年に卒業生として塩沢に次ぐ二人目の総長に就任して「早稲田大学中興の祖」と呼ばれるほどに学苑の発展に尽し、戦時下の十九年八月二十二日に六十八歳で病没した田中穂積については、第四巻に一節を設けて詳しく説述してある。生誕百年の五十一年二月十七日、生家のある長野市篠ノ井石川の墓碑に総長村井資長はじめ学苑関係者、令孫および田中家親族、校友会代表、地元稲門会代表等による展墓と生家での追善午餐会が行われた。学苑では、六月十七日の小野記念講堂での講演会と十五―十七日の三日間に亘っての展示会がやはり大学史編集所により催された。講演会の壇上に立ったのは、名誉教授末高信、商学部教授入交好脩、元総長阿部賢一と、いずれも田中を恩師とし上司とした者達である。末高は「恩師田中穂積先生を偲んで」と題して、「既成の言葉ではとうてい盛りきれない御恩をいただいた」思慕を表すとともに、田中の財政学者および大学経営者としての業績に触れた。田中の総長としての第一回の卒業式に証書を手ずから渡されたという入交は「晩年の田中穂積先生」と題して、田中の総長時代の活動を体系的に整理・紹介し、かつオールド・リベラリストとしての田中像を描いた上で、特に戦時中の田中の行動について貴重な証言を行い、田中評価に一石を投じたものである。前述の塩沢の経済学の講義と田中の財政学の講義を聞いたという阿部は「田中穂積先生の追憶」と題して、田中の雄弁で説得力のある講義ぶりを偲び、「中興の祖」たる所以を説いた。これらの講演は『早稲田大学史記要』第一〇巻(昭和五十二年三月発行)に再録されている。一方、七号館二階の大隈記念室で開かれた展示会では、(一)青少年時代、(二)初期教員時代、(三)中期教員時代、(四)後期教員時代、(五)書画・書簡、(六)遺品という構成で、田中の小学初等科の卒業証書から、独学時代の東京専門学校講義録、写真、肖像画、講義ノート、更にはガウンやステッキ等までが並べられ、あらためて名総長の生涯が偲ばれた。